ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ディスコ

納涼・“元祖DJ”一遍さんとの遭遇 (Close Encounters of Ippen Shonin)

Ippen突然ですが、今回は脱線必定の「番外編」です。今月中旬の炎天下、愛媛県松山市界隈のお遍路道の一部約40キロを2日間かけて歩いてきました。雑誌の企画だったのでせわしない旅だったのですが、私にとってはついでに「元祖ディスコDJ」一遍上人(1239−89)ゆかりの地を訪問できたのが何よりの収穫でした。

いうまでもなく遍路は、四国讃岐で生まれた平安期の高僧空海(弘法大師)ゆかりの霊場八十八カ所を礼拝する旅です。その空海没後約400年の鎌倉時代、同じ四国の地に突如として現れたのが、現在の松山市道後温泉近くで生まれ育った僧・一遍さんです。

一遍さんは、岩手県から九州まで全国各地を訪ね歩く“遊行(ゆぎょう)”を行い、「南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば必ず極楽往生できる」と民衆に説きました。その際、「南無阿弥陀仏 六十万人決定(けつじょう)往生」と書かれた念仏札を配るとともに、かねてより尊敬していた僧・空也(くうや)が平安期に最初に実験的に始めた「踊念仏(おどりねんぶつ)」を訪問先の寺院や広場、市場、それに即席で建てた「踊り屋」(特設ディスコ)で決行してみたところ、地元の人々に大ウケしたのでした。

念仏を唱え、自然の感情に身を任せて踊り狂うことで煩悩を吹き飛ばし、一切を捨て去ることで心の安寧を得ようとする踊念仏。そんな斬新な修行法にひかれる信奉者は、瞬く間に増えていったのです。一遍さんの精神は、今も続く時宗へと受け継がれています。私は2年前に時宗の総本山の清浄光寺(藤沢市)を訪れておりまして、そこで一遍像(写真上)などを見てきたのですが、今度はその故郷を仕事で訪ねられたのは幸運でした。

念仏札に書かれた「六十万人」は、一遍さんが当面の目標としていた救済人数です。多いのか少ないのか?「あらゆる民衆をお救いいたしますぞ」と豪語した高僧にしては、なんだか中途半端な気もしてきますけど、「とりあえず六十万人の極楽行きを決めてあげて、さらにもっと増やしていこう」と意気込みを示したのでした。史料によれば、生涯で計25億1724人に札を配ったとされてます。…今度は「地球規模のすんげえ数!」とうろたえてしまいますが、実際には25万1724人だったとの説もあります。

どのみちいい加減でコワい気もしますけど、それこそが「踊る高僧」一遍さんの自由奔放で慈悲深いところだと思います。ともかく、「元祖DJの音頭取り」に導かれながら、「念仏チケット」を手に入れた熱狂的ダンサーが加速度的に増えていったのは事実です。海外から蒙古軍が繰り返し攻めてくる(元寇)など世情が不安定だった時代、この神秘的ながらもシンプルで分かりやすい踊念仏信仰は各地で大評判を呼んだのですね。

踊念仏は、後に田楽、猿楽、能楽、神道系の神楽などと結びつき、風流踊(ふりゅうおどり)、歌舞伎、日本舞踊や、“集団祝祭舞踊”としてのディスコの源流である盆踊りへと発展していきました。あらゆる日本の舞踊芸能の原型ともいえるのです。特に、神楽のような神社(神道)で行われる神事と、踊念仏の仏事が神仏習合して影響を与え合い、日本の芸能へとつながっていった点が興味深いと思います。つまり、一遍さんも僧侶であると同時に、神と民衆をつなぐシャーマン(みこ、ふげき)の役割も果たしていたといえます。

古来、「踊り」には、極楽往生や五穀豊穣や武運長久、それに死者への鎮魂といった「祈り」の要素が含まれています。こうした傾向は世界各地に見られますので、海外のディスコについても、祝祭的な意味合いが少なからず残っていたはずです。

今回、私がお遍路で出発したのは岩屋寺(写真下)というところ。ここは一遍さんが35歳のときに岩窟に篭って修行した場所で、寺の周囲は今でも見上げるばかりの絶壁になっています。私もはしごを10メートルほど登って、修行したと伝わる空中フロアみたいな岩の窪みの空間に立ち、踊念仏風のブレイクダンスをやってみようと思いましたが、足がすくんであえなく断念しました。

その後の行程でも、一遍さんが修行した庵の跡や生誕地の寺(宝巌寺)などなど、ゆかりの場所が目白押しでした。私は主役であるはずの弘法大師への尊敬の念を保持しつつも、「ディスコの聖地探訪」にもっぱら精を出したのでした。

さて、一遍さんが生きた700年前に遡りましょう。一遍の死から10年後に書かれた国宝の伝記絵巻「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」(踊念仏の参考画像・東京国立博物館公式HP)によると、彼は遊行の途中に立ち寄った比叡山延暦寺で、地元の僧に「踊りながら念仏を唱えるとはけしからん!」などと難詰されました。しかし、一遍さんは悠然と歌で返します。

「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しるひとぞしる」

「春の野にいる若馬が跳ね回っているように、跳ねたければ跳ねればいいし、踊りたければ好きなように踊ればよい。自然に仏の教えを身につけることができるでしょう」―というわけです。

けれども、その僧は気色ばみながら、「心の中の若馬を乗り静めるのが仏の教えだ。心の欲望を抑えるべきなのに、なぜそのように踊って跳ねなければならないのだ、うん?」としつこく食い下がりました。それでも、頑固一徹な一遍さんは表情を崩さす、こう続けたのです。

「ともはねよ かくてもをどれこころごま みだのみのりと きくぞうれしき」

「いやいやいや、ともかく踊りたいという心があれば、心のままに踊ればよいのだ。そこで得られる喜びこそが、阿弥陀如来のお声だと思えば嬉しいことこの上ないぞよ」―というわけですね。いやはや、まさに無我の境地で踊り狂うディスコ精神そのものではないでしょうか。踊る者は救われるのです。「同じ阿呆なら踊らにゃ損」なのです。

実際、遊行中の一遍さんがゆくところ、どこでも老若男女、富める者、貧しき者がぞろぞろと後からついていったといいます。もう、まさにドイツで同じ時期(1284年)に発生したとされる伝説「ハーメルンの笛吹き男」状態です。同じ鎌倉期の絵巻物「天狗草子」などには、踊念仏について「貴賎なく人々が集まり、男も女も真っ裸になって踊りまくっていた」とか「念仏を唱えながら頭や肩を狂ったように激しく振り、畜生のようだった」といった度肝を抜く表現も見えます。

ですから、「下々の者がなんと不埒な!」と、秩序の乱れを恐れる時の権力者から睨まれ、取り締まりの対象になる場合があったわけです。実際、一遍さん御一行はある日、幕府のある鎌倉にぞろぞろと“進出”しようとしたところ、警戒中の武士たちに阻止された、とのエピソードも残しています。このときは、仕方なくちょっと手前の村(現在の神奈川県藤沢市片瀬地区)に留まり、全力で踊りまくったのでした。その様子については、上記「一遍聖絵」の第六巻に「七日の日中にかたせの浜の地蔵堂にうつりゑて、数日をくり給えけるに、貴賤あめのごとく参詣し、道俗雲のごとく群衆す」との記述があります。当局に妨害されて、かえって「ダンス魂」に火が付いたというわけです。

このあたり、幕府の監視下にあった江戸時代の歌舞伎、そして警察が目を光らせる現代のディスコ、クラブなどの歌舞音曲と相通ずるものがありますね。

一遍ダンスの「音源」は、身近にある鉦(かね)や鉢(はち)や太鼓、それにお銚子などの食器でした。「一遍聖絵」では、一遍さん自身が鉢を猛然と叩いている様子も描かれています。えてして上から目線で説教する一般的な教祖ではなく、同じ目線で一緒に「いけいけ!」と盛り上がっているわけです。そんなDJが繰り出す音楽に思い思いに身を委ね、心と神仏が一体になる恍惚、興奮状態はまさに、かつてのディスコフロアと同じアナーキーな状況でした。

70年代後半からバブル景気が終わった90年ごろまで続いた日本でのディスコ期には、神仏と戯れるかのようにトランス状態で愉快に踊る「忘我族」が、フロアを埋め尽くしていました。もちろん、“シャーマン”役はDJです。

とりわけ70年代には、曲に合わせて皆が同じ振り付けで踊る盆踊りの延長といえる「ステップ」が流行しました。80年代に入って、それぞれが勝手気ままに踊る「フリーダンス」が主流となりましたが、これはかえって自由奔放さがウリだった踊念仏に「先祖返り」したようでもありました。フロアに居合わせた者は皆、DJがかける曲に合わせて「勝手に踊って、ひとりでに調和する」(アナーキスト大杉栄の言葉)喜びに、浸りきっていたのです。(以前の投稿ご参照

もちろん、現在のクラブにも同様の要素は残っていますけれども、一遍さんの踊念仏のように「老若男女分け隔てなく救う」という感じではない。そもそも音楽ジャンルも細分化して、「みんなが知っているような曲」が極端に少なくなっていますからね。

最後に訪ねた宝巌寺では、住職さんが「あの当時は、雲上人から穢多、非人、らい病の患者まで、身分や貴賎や貧富に関係なく、みんなが一遍を信奉していました。踊念仏は、激しいタイプと大人しいタイプと二通り伝わっていますが、特に激しいタイプは、足を跳ね上げて、ディスコのように踊るというものです」と話していました。

現在伝わる踊念仏をYoutube映像で見てみると、700年の伝統だけにもの凄く素朴ながらも、「リズムに合わせて踊る」という基本はしっかりと抑えています。いずれぜひ、各バリエーションの踊念仏をじかに見てみたいものです。

やはり「日本のディスコのルーツここにあり」と思わずにはいられません。文明の豊かさの恩恵を受けている現代人も、煩悩のストレスは増える一方です。「何かと踊りたがる人間の本性は、一遍さんの時代と変わっていない」という事実をあらためて噛み締めるわけです。

――というわけで、今回の曲につきましては、仏教ゆかりのネパールのカトマンズにちなんだオリエンタルな名曲「ヒルズ・オブ・カトマンズ」(タントラ)と「ザ・ブレーク」(カトマンズ)のYouTube動画を強引ながらリンクしておきます。

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*遍路原稿掲載の雑誌「BE-PAL」(小学館)は8月10日発売です。

5メートル四方のアナキズム ――ディスコDJ「ハマちゃん」の追想

ハマさん2七色のカクテル光線が飛び交うディスコのフロア。大音響の洪水が巨大なスピーカーから流れ出し、振動が内臓の奥深くを揺さぶるかのようだ。天空から見下ろすのは、ありがたきミラーボールの御神体。ふと足元を見やると、ドライアイスのスモークがふわふわと忍び寄ってきた。ここは桃源郷か、はたまた闇の魔界への入り口か……。と、そこに、耳元で囁くような滑らかなアナウンスがどこからか流れてきた。

「夜のにおいが大好き 大人の香りがするから ゼノンのあるマチが大好き あなたがそこでDJをしているから ……さあ、次にお届けするのは、そんなロマンチックなあなたにぴったりな哀愁ハイエナジーのこの曲です……」

曲の合間に曲紹介の「しゃべり(トーク)」を入れたDJスタイルは、いまのクラブにはない、ディスコならではの演出だった。現在よりもはるかに若者の心を捉えていたラジオのディスクジョッキー(DJ)のスタイルを踏襲したものともいえる。フロアを埋め尽くした客はみな、前口上とともに流れてくるヒット曲の数々に酔いしれ、時が経つのを忘れて闇夜の舞踊に興じたのである。

そんな「しゃべり(トーク)DJ」の代表格として、70-80年代の夜の新宿・歌舞伎町で名をはせたのが「DJハマちゃん」こと浜田直樹さん(51歳、写真上下)だ。冒頭に挙げたのも、ハマちゃんが実際に使っていたアナウンスの一例である。季節はずれの肌寒さを感じさせる4月下旬、ご当地新宿の喫茶店で会ったハマちゃんは、このアナウンスにまつわるこんなエピソードを私に明かしてくれた。

「実は、この言葉は、ファンからもらった手紙に書いてあったんです。ある女の子が、『ハマちゃん、これ食べてね』って差し入れの弁当を持ってきたのですが、一緒に入っていた手紙に自作の詩が添えられていたんですよ。まあ、あのころのDJはモテましたから……1日に5個ぐらい差し入れの弁当をもらって、スタッフに分けていたほどでしたからね」

普通の状態で聞けば照れくさいほどのいわば“歯の浮くような”詩ではある。が、心の壁を取り払う解放空間のディスコであればこそ、高揚した者たちの胸に素直に響くのだ。 憧れのDJに思いを伝えるため、懸命に言葉を紡いだこの少女にとっても、日常の生き難さや鬱憤から逃れるための、数少ない癒しの場だったに違いない。私自身も当時、その中に身を置いていた一人として、よく理解できる。それがたとえ虚しい「つかの間の夢」であり、大人たちからは禁じられた「火遊びの場」だったとしても、彼ら、彼女らにとっては、祝祭の熱狂に身を委ねる理由が確かにあった。

ハマちゃんは中学時代にディスコ音楽と出会った。高校時代には客として通いつめ、大学時代の1978年にプロDJとして働き始めた。空前の大ヒット映画「サタデー・ナイトフィーバー」が火付け役となり、世界中でディスコ音楽が鳴り響いていたころだ。赤坂、六本木、渋谷、新宿……。東京のディスコの“主戦場”で、先輩DJにしごかれながら腕を磨き、1982年6月に新宿・歌舞伎町にあった大規模店「ゼノン」にDJとして入り、間もなく数人の後輩を抱えるチーフDJとなった。

「僕がDJになったころはブームがピークでしたから、フロアが連日満杯でした。従来の黒人ソウル系に加えて、ビージーズやキッスのような白人ミュージシャンもブームに乗っかり、ディスコの曲を次々と出すようになっていました。でも、80年代初頭までは、やはりアース・ウィンド・アンド・ファイアー、ピーチェス・アンド・ハーブ、エドウィンスター、リック・ジェームス、それに『ヤングマン』のビレッジ・ピープルなど、黒人ミュージシャンの曲をかけることが多かった。ジョージ・ベンソンのようなサーファーが好む曲も流行っていましたね」

だが、ゼノンに入ったのは、折りしも歌舞伎町が強烈な“逆風”に晒されていた時期だった。1982年6月、中学生の少女がディスコの帰りに何者かに殺害されたいわゆる「新宿ディスコ殺人事件」(1997年時効成立)が発生した。深夜営業の禁止、未成年者の入店規制などの取締りが強化され、新宿ディスコの灯火は消えたかのように思えた。ところが……。

「深夜営業はなくなりましたが、客の入りは相変わらずよかったんですよ。事件の悪夢を凌ぐほど、“踊り場”ディスコの人気はなお高かったということです。週末は超満員で、1日2千人から3千人は入っていましたからね。ディスコ音楽についても、ちょうど新しい風が吹き込んできた時期だったんです。大スターになったデュラン・デュランなどのイギリスのニューウェーブもそうです」

けれども、一番“潮目が変わった”と感じたのは、81年に発売され、徐々に世界中のディスコで定着し、日本でも後にロングランヒットとなっていった「君の瞳に恋してる」の登場だった。いわずと知れたこのボーイズ・タウン・ギャングの名曲がフロアで大ウケしたこの時期、ハマちゃんは先輩から教わった「しゃべり型」DJにも磨きをかけた。

「六本木は『曲のつなぎ方』、新宿は『しゃべり』で客をひきつける文化があったように思います。とにかく『エー』というつなぎ言葉を入れないでよどみなくしゃべる。ここに一番、注意を払っていました。たとえば、30分間普通に曲をつないで、『一押し』の1曲をしゃべりで紹介して、その後は少しゆっくりした曲でトーンダウンさせて……といった具合にプレイしていって、とにかく客を飽きさせないように工夫していましたね」

当時の曲は、後のハウスやテクノといったビート重視かつ単調な曲調と違って、Aメロ、Bメロ、そしてコーラスと、曲全体の抑揚やメロディーラインがはっきりしていた。それだけに、ボーカルが入るまでのイントロの段階で雰囲気を盛り上げる「しゃべり」は、抜群の効果を発揮した。とりわけ、「君の瞳」に代表されるハイエナジー、さらにその発展形としてのユーロビートは、「哀愁ディスコ」ともいわれるほどドラマチックに展開するのが特徴だったから、なおさら劇場効果を呼び起こすことができた。

80年代後半に入ると、円高や低金利を背景にバブル経済に突入し、いよいよ「バブルディスコ」の絶頂期となる。もちろんDJハマちゃんもエンジン全開である。このころにはゼノンのほか、六本木にあった有名店「リージェンシー」などでもチーフDJとしてプレイするようになった。流行の最先端の遊び場で、毎日何十枚ものレコードに針を落としていく中で、ディスコの国内盤を発売する音楽レーベルのスタッフとのパイプも太くなっていった。

「何しろ毎月、300枚以上ものレコードが店に届いていましたからね。その多くは、レコード会社のプロモーターから『この曲をかけてほしい』と届けてきたレコードです。ほかに1店あたり毎月約8万円分、近くの輸入盤店で買い付けていました」

国内の最新ヒットの動向を左右するほどの音楽発信源として、ディスコのDJが相当な影響力を持っていたことがよくわかる。実際、ハマちゃんは当時、「ギブ・ミー・アップ」で知られるマイケル・フォーチュナティーやジェリービーンなど、数十枚のディスコヒットの7インチシングルやLPレコードのライナーノーツも書いている。 バブル時代の光景といえば「お立ち台、ワンレン、ボディコン」が連想されるほど、ディスコとバブルは密接不可分な関係だった。いわば老若男女、日本人も外国人もともに踊り狂う「5メートル四方のアナキズム」を実現したフロアとは、浮かれ気分の若者にとっては最高の舞台でもあったのだ。

けれども、だからこそ、ディスコにはいつも光と闇が交差した。酒、暴力、男女の歪んだ出会い、ドラッグ……。究極の「自由空間」は、同時に異常なまでの「放蕩空間」と紙一重だったから、古来からの祭りがそうであるように、いつだって狂気を孕んでいた。もちろん、DJたちにとっても誘惑は多かった。

「中には女や酒に溺れて身を持ち崩すDJ仲間がいたことも確かです。私はお酒は飲めず、性格も真面目な方だったので、ほとんど遊びはやりませんでした。とにかくDJをやること自体が好きでしょうがなかったから、いつも『明日はこの曲を中心にかけよう』とか、そんなことばかり考えていました。その分、店のオーナーからは信頼されていたとは思いますがね」 と笑顔を見せるハマちゃんだが、それでも、いかにも「ザ・歌舞伎町」な恐ろしい体験もしたそうだ。

「80年代半ばごろ、歌舞伎町の喫茶店に入ろうとしたら、少し派手な格好をしていたからでしょうか、若いチンピラに『チャラチャラしてんじゃねえよ。何だおめえは』って凄まれました。『ディスコのDJやってます』と答えたら、いきなり態度がかわっちゃって、ひるんだ表情を見せたんです。地元の店のDJと問題を起こしちゃまずいと思ったんでしょうね」

すかさず、傍らにいた“兄貴分”らしい男が「おわびをさせてほしい」と丁寧に謝ってきた。近くの高級焼肉店に招待したいという。ここで断るとまた面倒なことになると思い、黙ってついていった。

「そうしたら店に入って席に着くなり、その男が、料理の名前が並んだメニューの右上から左下の隅まで指ですーっとなぞって、『これ全部くれ』って店員に注文したんですよ」 。 テーブルに届けられた大量の肉と野菜。「こりゃ食いきれない」と大いにひるんだものの、必死になって箸を運び、なんとか平らげることができた。……だが、これで終わりではなかった。帰り際、「DJさん、タクシー代です」とお金を渡された。その額がなんと10万円だったという。

「2、3千円で到着できるような場所に住んでいたから、これまた『困ったな』と思いました。でも、とりあえず受け取ったんです。そう、ここで断わってはいけないんです。渡世人の彼らのプライドを傷つけることになるので、かえってまずいんですね」

彼らの本当の意図はうかがい知れないにしても、一般の人間からすれば馬鹿馬鹿しいほどの見栄の張りようだ。けれども、こんな滑稽な出来事が実際に起きるのも、虚実がないまぜになった日本一の歓楽街「歌舞伎町」であるが故なのだろう。地元で巨額の金を稼いでいた人気店のDJとは当時、それほど一目置かれていた存在だった、ともいえるのだ。

しかし、酔狂の宴は永遠には続かなかった。90年代初頭、バブル経済が崩壊するとともにディスコも衰退し、間もなくうたかたのように消えていった。ハマちゃんも90年代の後半以降は、レコード会社で制作者として勤務するなど、別の道を歩んでいった。ほかのディスコDJたちの多くも、クラブの台頭とともに一線を退いていった。

なにしろ「バブル=泡」なのだ。鎌倉時代の随筆家、鴨長明が無常観を綴った「方丈記」の冒頭にも「川の水面に浮かぶうたかた(泡)は、消えては生まれ、生まれては消え、とどまるところがない……」とある。投機に浮かれた不動産業者も株のブローカーも、そして好景気を歓迎した普通の人々も、こぞって“幻”に踊らされていたのだから、ディスコだけをあげつらってもしかたあるまい。

それでもハマちゃんは、ディスコ世代のDJとしての情熱が冷めたわけではなかった。今だって、本業のレコード・CD販売業の傍ら、都内のダンスクラシックやディスコのイベントに呼ばれ、熟成した「しゃべりDJ」を披露することも少なくない。こつこつと集めたレコード、CDも今なお計1万枚以上、所有しているという。

ディスコってなんだったんだろう――。残り少なくなったコーヒーを口にしながら、ハマちゃんはあの時代を振り返ってこう話した。

「みんなにとっての自己表現の場、だったのかな。ファッションだったり、ダンスだったりと、方法は様々だけれど、とにかくいろんな人が集まる流行の空間で、自分たちの存在をアピールする格好の場だったのだと思います。ディスコはあくまでも踊る客が主役ですからね。DJはそれに応えながら『こんな曲があるよ』と即興で紹介していく。『コール・アンド・レスポンス』(呼びかけと反応)の世界なんです。あれだけ世代を超えて人々を引き寄せた遊び場は、ディスコ以外にはないでしょう」

娯楽や趣味、そして社会そのものがますます個別化し、多様化、断片化している今、もう二度と同じような共有空間は立ち現れないかもしれない。けれども、ディスコは死んではいない。踊り場が「クラブ」と名を変えて生きながらえているように、音楽に身をゆだねて体を動かす人々の欲求は、これからも変わることはないからだ。クラブのルーツとして、さらには唯一、世界を同時に熱狂させたダンス音楽として、ディスコはいつまでも記憶されるはずだ。

だからこそ私自身、「楽し過ぎた」あの時代を生きた客の一人として、単なるノスタルジーではなく、リアルに幻影を追い続けられているのかもしれない。あのときの名DJが、なお現役で活躍している事実こそが、それを証明してくれるのである。
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*「ハマちゃん」こと浜田直樹さんは、2021年1月28日、永眠されました。ディスコの諸相について丁寧に教えていただき、本当にありがとうございました。謹んでお悔やみ申し上げます。(2021年1月30日追記)

ミリー・スコット (Millie Scott)

Millie Scott今回は「黒いジャガー」から時代をぐ〜んと新しくして、久しぶりに1980年代後半の「バブルディスコ」ということで。一時期、「Prisoner Of Love」(86年、全米ディスコ13位、R&B78位)、「Every Little Bit」(87年、R&B11位)、「Automatic」(87年、R&B49位)などの中小ヒットを集中的に繰り出したミリー・スコットさんです。

私も当時、浮かれ気分の六本木などのフロアで大変よく耳にしたものです。どちらかというと正統派ソウルなタイプの人で、活躍ぶりは地味でしたが、個人的に好きで、レコードを買ってよく聴いていた記憶があります。

調べてみますと、なんと申しましょうか、“ザ・苦労人”なんですね。本名はMildred Vaney(ミルドレッド・ヴェイニー)。47年米ジョージア州生まれで、少女時代はゴスペルで鍛え上げ、デビューに至ったのは60年代です。テンプテーションズやアル・グリーンといった大物のバックコーラスを務めたほか、「The Glories」、「Quiet Elegance」という名の女性グループでもボーカルを務めるようになったのですが、さしたるヒットには恵まれませんでした。

それでも、ディスコ史的には70年代末、突然ひょこっと顔を出したのがミリーさんであります。「Hott City」と「Cut Glass」という2つのディスコグループ(実はメンバーなどが互いにかなりダブっている)の中心ボーカルでもあったのです。前者では「Ain't Love/Feelin' Love」(79年、全米ディスコ29位)が、後者では「Without Your Love](80年、同16位)が、それぞれちょっとしたディスコ曲として認知されました。特に「Without…」なんて、後にディスコリメイクされたほどでして、なかなかゴキゲンな良曲となっております。

数年間のブランクの後、彼女のピークがやってまいりました。86年にソロデビューアルバム「Love Me Right」をリリースして英米でヒットを記録。この中から表題曲と「Prisoner Of Love」、「Automatic」、「Every Little Love」の計4曲のダンスチューンを矢継ぎ早にヒットさせたのです。このとき既に40歳になっていました。

曲調はもうホント、当時流行ったまったり感のあるアーバン・ファンクです。似たようなところでは80年代半ば以降のS.O.S.バンド、ルース・エンズあたりが頭に浮かびます。バブルなディスコはもちろんですが、こじゃれたカフェバーみたいなところでも確実にかかっていました。90年代ユーロビートやハウスやテクノやニュージャック・スイングみたいにハイパーになる直前のシンセサイザーの乾いた音色が、ガラス&鏡張りで無機質な「ザ・クリスタル」店舗空間には妙にしっくりきたものです。

彼女はこの後、88年に2枚目のアルバム「I Can Make It Good For You」を出しましたが、ちょいヒット止まり。再びバックボーカル中心のいぶし銀な活動ぶりになっていきました。歌はとてもうまいのですけど、うまいだけならほかにも大勢います。例えば、同じころに売れていたホイットニー・ヒューストンやジャネット・ジャクソンやキャリン・ホワイトのように、聴いて識別できるような“個性”に乏しい印象がありますね。

さて、この人のファーストアルバムのCDは長年、レア扱いで一時は日本円で数万のバカバカしい高値をつけるほどでしたが、なぜか今年に入って日本とオランダから相次いでCDが再発されました(写真)。注意したいのは、「Prisoner・・・」の12インチバージョンなどのステキなボーナストラックが、オランダのPTG盤にしか入っていないという点。音質に差はないので(実は間違って2枚とも買ってしまってトホホ)、ここは“輸入盤に軍配”ですかな。

Tom Moulton (トム・モールトン)

トム・モールトンアメリカのディスコミュージックは1970年代初頭、ニューヨークで始まりました。ファイヤー・アイランドと呼ばれる地区で、裕福だったり容姿端麗だったりする“一流のゲイたち”が密かに集まる踊り場が誕生したのがきっかけといわれています。

そんな踊り場に出入りしていた客の中に、後に音楽ビジネスに革命を起こす“美形”の青年がいました。ディスコミックスの元祖と呼ばれているトム・モールトンです。

1940年に生まれたトムは、保守的な家庭に生まれたキリスト教徒の白人でありながら、高校生のころから黒人音楽に魅了されました。学校でダンスパーティーを開いて停学になったこともあります。10代でレコード店に勤め始め、その後ジュークボックス会社勤務などを経て、本格的に音楽ビジネスに入ります。美貌を生かしてモデルをやっていたこともありました。

ダンスミュージック好きだった彼は、当時のさまざまな流行音楽に触れるにつれて、「シングル盤のバージョンでは短すぎる」と感じるようになり、粗末な機械を使ってロングバージョンのテープを作るようになりました。

やがてディスコが世に知られるようになると、トムには俄然、仕事の依頼が増すようになりました。ミュージシャンたちがこぞって、ディスコDJが好むようなロングバージョンを作るようになったからです。

主な舞台になったのは、ハロルド・メルヴィン・アンド・ザ・ブルーノーツやオー・ジェイズたちが多くのディスコ音楽を送り出したフィラデルフィア・インターナショナル・レコードのシグマ・サウンド・スタジオでした。後にはサルソウルなどでも12インチサウンドを作り出しています。

トムのミックスは「トム・モールトン・ミックス」と呼ばれるほど評判となります。グロリアゲイナー、B.T.エクスプレス、MFSB、グレース・ジョーンズなどなど、無数のディスコ系ミュージシャンのミックスを手がけていました。70年代中盤になると、ディスコ「パラダイス・ガラージ」のラリー・レヴァン、「ザ・ロフト」のデビッド・マンキューソら、著名なディスコDJとの交流も深めていきました。

ディスコ史の重要人物であり、現在のクラブコシーンを語る上でも欠かせないトム・モールトン。しかし、自分の名前でレコードを出すことは好まず、ヒットを生み出す「ソングドクター」と呼ばれるほど裏方に徹したミキサーでした。それでもようやく最近、ロンドンの再発レーベルからリリースとなったのが写真の2枚組CDです。

選曲は、私がディスコを聴き始める直前のころの70年代中・後期が中心。元テンプテーションズのエディ・ケンリックスやグレース・ジョーンズ、アイザック・ヘイズなどの曲が収録されています。

黒人ソウル系の古めのディスコが多いようですが、何しろ「トム・モールトン・ミックス」の貴重バージョンばかりですから、充実したラインアップ。こだわりある「正統派ソウルファン」の耳にも十分、耐えられるのではないでしょうか。

ただ、音は「あまりよくない」とはっきり申し上げておきます。聴いていてすぐ判明するのですが、レコードからの「直」録音ばかり。マスターテープはもう残ってないのかもしれませんけど、残念なことです。

プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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