ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ボーイ・ジョージ

ヘイジー・ファンテイジー (Haysi Fantaizee)

Haysi Fantayzee変テコなものはすべからくディスコです――。と、さりげなく断定しちまったところで、今回はヘイジー・ファンテイジーというグループを取り上げてみましょう。

1981年、イギリス人の ジェレミー・ヒーリー(Jeremy Healy)、ケイト・ガーナー(Kate Garner), ポール・キャプリン(Paul Caplin)の3人で結成した典型的な英国ニューウェーブバンド。中でも、前面に出てくるボーカルのジェレミーとケイトの風貌と、歌詞のユニークな掛け合いが特徴でした。

代表曲は、「John Wayne Is Big Leggy(邦題:正義の味方ジョンウェイン)」(82年)と「Shiny Shiny(シャイニー・シャイニー)」(83年)で、英国を中心にヒット。どちらも、以前紹介したデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズみたいなヒルビリーでカントリーっぽい曲調になっておりますが、もっと奇天烈で意表を突いた陽気さがあふれかえっております。

特にシャイニー・シャイニーは、地元札幌のディスコではときどき耳にしました。これまた以前に紹介したアップテンポ・スカビートのスペシャルズリトルビッチ」のごとく、もの凄くアップテンポな体力消耗ダンスチューンなのですが、素朴なバイオリンの音色に乗って突如「シャイニー♪、シャイニー♪」と大らかに連呼するわらべ歌みたいな展開には、底知れぬ好感と違和感を抱いたものでした。

なにしろ、揶揄しているとはいえ「ザ・アメリカン西部劇ヒーロー」ジョン・ウェインが登場するほどですので、曲がカントリー風味なのは当然だとしても、そこにキックの強いディスコやロックのビートを絡ませるところは、さすがに「なんでも試してやる!」的な英国バンドの真骨頂。移民に寛容で自由を重んじつつ、極度に保守的な面もあるアメリカだと、ちょうど今のアメリカ議会のように、カントリー(共和党)とディスコ(民主党)なんて反発し合ってなかなか融合しないわけですからね。

巷では「イギリス版バービーボーイズ」との呼び声も高かった彼らですが(ウソ)、当時のプロモーションビデオなどを見ますと、ややふてくされた表情の長身ケイトと、常にくねくねとクラゲのような動きを見せるジェレミーが、陰と陽の奇妙なコンビネーションを醸しているように思います。

実は、ジェレミーは前回登場のカルチャークラブのボーイ・ジョージとは級友で、ロンドンの伝説のクラブ「ブリッツ」にもよく一緒に出入りしていたといいます。そういえば、ヘイジーのファッションセンスや風貌も、なんとなくボーイと似た感じです。

けれども、ボーイ・ジョージの一層強烈なキャラクターもさることながら、メジャーレーベルの全面的なバックアップも得ていた時代の寵児カルチャークラブとは、人気面でも音楽的な完成度の点でもどうしても差がついてしまいました。上記2曲が収録された「Battle Hymns For Children Singing」というアルバムを1枚出した後、結成からわずか2年後の83年に活動を停止してしまったのでした。その後、ジェレミーはDJやリミキサーの裏方、ケイトはカメラマンとして主に活動することになります。ここでも意表を突いています。

奇をてらい過ぎたのがよくなかったのか、結果的には短命に終わったヘイジーですが、今もこのころの音楽を愛する好事家たちには人気が高い人々です。CDも数年前にベスト盤(!)が発売されましたので(上写真)、異様に明るいダンスミュージックをボリューム全開にかけて、家族そろって大らかに盛り上がるのもよいかもしれません。

カルチャークラブ (Culture Club)

Culture Club 21980年代初頭に艶やかに登場したのが、英国ポップバンドのカルチャークラブ。とりわけリードボーカルの中心人物ボーイ・ジョージの伸びやかな歌声、そしてなによりも中性的な衣装や髪形が大人気となり、センセーショナルなビッグアーチストになりました。

1961年生まれのボーイ・ジョージは、子供のころからド派手なファッションに身を包み、かなり変わった人物とみられていました。多くのミュージシャンが輩出したロンドンのクラブ「ブリッツ(The Blitz)」に常連として通い詰め、ライブ演奏もするうちに有名になり、音楽活動を本格化させました。

最初は、セックス・ピストルズを手掛けた音楽プロデューサーであるマルコム・マクラーレンに見出され、Bow Bow Wowというニューウェーブバンドのライブに参加するなどしていましたが、82年に自らカルチャークラブを結成し、デビューアルバム「Kissing To Be Clever」(写真)を発表。レゲエ・ダブ調のバラード「Do You Really Want To Hurt Me (邦題:君は完璧さ)・」が、全米一般シングルチャート2位に上昇する大ヒットとなります。

その後も「Karma Chameleon (カーマは気まぐれ)」(一般1位、全米ディスコチャート3位)、「Miss Me Blind (ミス・ミー・ブラインド)」(一般5位、ディスコ10位)など、しばらくは怒涛の躍進ぶりを見せつけました。

この人は、70年代末のディスコブームが去り、多様な音楽の誕生や再生の時期を迎えていた大市場アメリカで受けたのが何より大きかった。ボーイ・ジョージの出で立ちは、MTVでもとてつもなく存在感を発揮していましたし。日本でもアイドル的な人気があり、「君は完璧さ」を含めてディスコでもよく耳にしたものです(踊りにくいけど)。

音楽的には、以前に触れたデュラン・デュランとかスパンダー・バレエと同列のポストパンク時代の英国発ニューウェーブです。それでも、レゲエやカントリーやソウル音楽の要素も入っていて、斬新で洒落た雰囲気も醸していました。ボーイ・ジョージの風貌の奇天烈さに頼っていたわけではなく、結構ちゃんとしたアーチストだったのです。

ところが、1986年に4枚目のアルバム「From Luxury To Heartache」を出したあたりで調子がおかしくなります。ボーイ・ジョージがドラッグ中毒になり、ほとんど活動ができない状態になったからでした。ヒット曲も出なくなり、すっかり過去の人達になっていったのでした。

バンド自体は紆余曲折を経て、90年代後半に再結成し、現在も活動しているようですが、かつての勢いはまったくありません。彼らの公式HPによると、カルチャークラブという名前は、「世界の様々な文化を融合させる」といった意味が込められており、結成当初にはそんな特色もフルに発揮されていたのですが、なんとも寂しげな現状です。

ここでもまた、「一期は夢よ、ただ狂え」(閑吟集)、「この世は幻のごとき一期なり」(蓮如)のディスコ的無常が顔をのぞかせているわけですね。

というわけで、よくある「自業自得のドラッグパターン」ではありますが、その音楽的功績が消え去るわけではないでしょう。各アルバムやベスト盤のCDも再発されておりますので、私もたまに聴いて往時をしみじみと偲んでおります。

デッド・オア・アライブ (Dead Or Alive)

Dead Or Alive「こんな曲がついに出たか!」。デッド・オア・アライブ(DOA)をディスコで初めて聞いたときの身震いする感覚。ハイエナジー系のうねうねシンセ・サウンドの一つの到達点であり、あまりにイケイケで吐きそうなほどでした。

1983年、当時の地元札幌のディスコ「釈迦曼陀羅」で耳にしたのは、「What I Want」という曲でした。最高潮に盛り上がったときにいきなりかかり、何だか分からないままに、フロアに飛んでいったのを記憶しています。すぐに客で満杯になり、地響きが鳴り響くような状況になりました。ボーカルのピート・バーンズの野太い声が、いまも鼓膜の奥によみがえってきます。

DOAは1979年、同性愛風の派手派手コスチュームに身を固めたピートを中心に結成された、「ナイトメアーズ・イン・ワックス」という新手の英国ニューウェーブ・グループが前身。翌80年には、やはりピートを前面に出したDOAに改称し、現在にまで至っています。私が聞き始めたころには、既に結成から3年も経っていたというわけです。

私は当時、What I Wantが入ったデビューアルバム「Sophisticated Boom Boom」(84年発売)のピートの姿(左写真)などを見て、同じころに流行ったカルチャークラブのボーイ・ジョージの真似だ、と即座に感じました。同様の女装ゲイっぽいキャラのマイナーアーチストは、(ディバインのような奇天烈なやつも含めて)ほかにもたくさんいましたし。

けれども、カルチャークラブの結成は81年ですから、「ゲイコスチューム路線」という意味でも、DOAの方が少し先を行っていたようです(ただし、ピートとボーイは、互いに「あっちが真似した」と争い続けています。つまり仲が悪い)。

まあ、ルックスはともかく、デビューアルバムの曲はどれも秀逸だったものです。A面収録のKCの「ザッツ・ア・ウェイ」のリメイクなんかも、非常にソリッドかつトリッキーなシンセ使いに、ピートのあの「オペラでもやっていたのか?」と思わせる豊かな声量の歌声が、うま〜く調和しております。

85年に出した2枚目アルバム「ユースクエイク(Youthquake)」あたりから、セールスのピークを迎えます。プロデュースはお約束のストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)。「ユー・スピン・ミーラウンド」(英国チャート1位、全米ディスコチャート4位)のほか、「ラバー・カム・バック・トゥー・ミー」、「マイ・ハーツ・ゴーズ・バング」が収録され、このどれがかかっても、フロアは「どっか〜ん、どっか〜ん」の大花火大会でした。

86年発売の3枚目「Mad, Bad, and Dangerous to Know」も売れ行き好調。「ブランド・ニュー・ラバー」(全米ディスコチャート1位)、「サムシング・イン・マイ・ハウス」(同3位)はまたまた、ディスコフロアを激しくにぎわせました。

日本では、この後もヒット街道ばく進。バブル景気にもろに乗っかって、全国各地のディスコは皆、DOAモノで本当にむせ返るほどだったのですが、米国や本国英国では徐々に失速します。もともと変人扱いのピート・バーンズは、やれ「整形手術で唇が変になった」とか(事実らしい)、同棲相手の男と大喧嘩して警察沙汰になったとか(これも事実らしい)、とりわけゴシップで世間を騒がせる存在になっていったのです。

私自身もこのころから、DOAには正直、「そろそろマンネリかな??」と飽き始めてきました。90年代以降は、少し曲のトーンをソフト路線へと変えたようですが、ほとんど聴いていません。

ここで意外な事実。実は、ピートさんは80年代前半から普通に結婚していて、昨年離婚したばかりだというのです。でも、男性とも同棲しているわけですから、「バイセクシャル」ということになります。(まあ、そんなことはどうでもいいのですが)。

ほとんどのアルバムがCD化されていますが、写真のデビューアルバムは最近は希少価値大。2年ほど前には、待望の12インチ集CDが計画されたにもかかわらず、発売直前でなぜかお蔵入りになっています。「2003年●●ミックス」のようなセルフリメイクが非常に多いアーチストですので、今後、再び12インチ集を編集するのであれば、オリジナルバージョンをそろえてほしいものです。

追記*この投稿の4カ月後、待望のデビューアルバムのCDが発売されました。しかも12インチバージョンのボーナストラック入り! けっこうなことでございます。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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