ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ユーロビート

追悼・ドナ・サマー (Obit: Donna Summer)

Donna Summer She Works Hardどなたさま〜?のドナ・サマー」と投稿したのはもう7年前のこと。以来、映画サンク・ゴッド・イッツ・フライデーとかジョルジオ・モロダーとかポール・ジャバラとか、ディスコシーンのさまざまな重要場面や立役者をここで語る際にもことごとく登場していたわけで、押しも押されぬ「ザ・ディスコ・クイーン」です。私ももちろん、アルバムを全部持っています。そんなドナさんが米現地時間17日にがんで亡くなりました。享年63。18日付ニューヨーク・タイムズも1面で大きく報じました。

1948年にボストンで生まれたドナ・サマー(本名・ LaDonna Andrea Gaines)は、敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、まずは少女時代にゴスペル音楽に傾倒します。とはいえ、一般的なR&B歌手とは違い、10代のころはロックバンドでボーカルを務めるなど、ジャンルにとらわれない音楽活動を行っていました。

転機となったのは、60年代後半にニューヨークの人気ミュージカル「Hair」のオーディションに合格し、海外ツアーに出演するために一時ドイツへの移住を決めたときでした。しばらくはソロ歌手として芽が出なかったものの、そこでミュンヘンディスコやイタロディスコを創り上げたジョルジオ・モロダー、さらにピート・ベロッテという2人の敏腕プロデユーサーに出会い、74年にはようやくデビューアルバム「Lady Of The Night」の発表にこぎつけました。

その後、ジョルジオらが手掛けた「ラブ・トゥー・ラブ・ユー・ベイビー」(75年、米一般チャート2位、R&B3位、ディスコチャート1位)が大ヒットを記録。破竹の勢いだったディスコレーベル「カサブランカ」との契約も果たし、あとはよく知られた「ディスコディーバ伝説」の時代に突入していくわけです。

この曲の長さはなんと17分もありました。ラジオのDJに番組内でかけてもらうため1曲3〜4分が普通だったのですが、まさに「ディスコのDJにじっくりかけてもらうため」長くしたのです。また、ほぼ全編が、まだ出始めたばかりのシンセサイザーを駆使した「エレクトロディスコ」でした。おまけに、曲自体が“女性の喘ぎ声”が頻繁に聞こえてくるなど相当にエロくて、英BBCで放送禁止になったほど。先駆的かつセンセーショナルな試みだったので、一気に注目されたのですね。

これをきっかけに、レーベルの後押しを得て勢いをどんどん増していきます。完全無欠の世界初の本格的シンセサイザーディスコ「アイ・フィール・ラブ」、「ラスト・ダンス」、「オン・ザ・レイディオ」、元ドゥ−ビー・ブラザーズのジェフ・バクスターによるギターリフが素晴らしい「ホット・スタッフ」、「トゥー、トゥー、ヘイ、ビ、ビー!♪」の掛け声も楽しい「バッド・ガールズ」、さらにはバーブラ・ストライザンドとのド迫力異色デュエット「ノー・モア・ティアーズ」などなど、大ヒットを飛ばし続けたのでした。

80年代に入ると、ディスコブームの終焉やゲイについての失言騒動があって人気は下降線をたどるわけですが、83年の“女性労働賛歌”「シー・ワークス・ハード・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」(写真上)がビルボード一般チャート3位まで上昇する久々の大ヒット。日本のバブル絶頂期の89年には、「ええ? ドナサマーがユーロビート界進出?!」と私も度肝を抜かれたわけですが、あのストック・エイトケン・ウォーターマンがプロデュースした「ディス・タイム・アイ・ノウ・イッツ・フォー・リアル」(米一般7位)がヒットしました。完全に消えたわけではなかったのですね。

なかなかに個性的で魅力があるものの最高ランクの声質ではなく、バラードのヒットもない。グラミー賞を5つも取るほどのトップ歌手だったにもかかわらず、正統派のソウル歌手との評価はありません。やはり「色物ディスコ」の歌手だということが、どこかでネックになったわけでしょうが、CMやバラエティ番組や駅前の喫茶店で誰もが耳にしたことがある曲がいくつもあるというのは、とても偉大なことです。もちろん、ディスコ堂としては「だからこそディ〜バ!」と声高らかに賞賛いたします。

ダンス音楽界では、現在のテクノだとかハウスだとかレディー・ガガだとかの元祖にあたる人。電子ダンスミュージックの確立、(失言騒動があったにせよ)ディスコフロアにおけるゲイの解放、「ホット・スタッフ」で見せつけたロックとダンスミュージックの融合などなど、数々のエポックな功績を残して逝ったドナサマー。ディスコ宇宙のミラーボールのごとき大きな星がまた一つ、消えてしまったのです。心より哀悼の意を表します。

CDですが、これがアルバム単位だと意外と少ない。でも、ベストアルバムは国内外から豊富に出ているので、ひとまず網羅的に味わうことから始めたいところです。個人的には、なんとブルース・スプリングスティーンが作曲したロックディスコ「Protection」(曲調がどことなく葛木ユキ「ボヘミアン」に似ている)が入っている82年のアルバム「Donna Summer」とか、ミデアムテンポの切ない美メロ曲「Oh Billy Please」や雰囲気のいいバラードが収録された84年のアルバム「Cats Without Claws」(写真下)あたりの再発を期待したいところです。どちらも当時のディスコではよく耳にしたものです。

Donna Summer--Cats Without Claws

マイケル・フォーチュナティ (Michael Fortunati)

マイケル・フォーチュナティイタロディスコとはいいながら本国では相手にされず、日本バブルディスコの象徴になってしまった「ギブ・ミー・アップ」(1986年)。肩掛けキーボードがトレードマークだったマイケル・フォーチュナティさんは、いまどこでなにをやっているのでしょう。

――そんな思いにかれられる切ない彼なのですが、とにかく日本でのみ売れたといっても過言ではないので、海外サイトや各種ディスコ資料を調べても、あまりデータがありません。ベルギーなど欧州の一部ではヒットしたとされていますけど、Youtubeとか見ても、外国人からの書き込みがとても少ないので、やはりマイナーだったと思われます。

日本では歌謡番組に出演するなど、一時期は相当な知名度を誇っていました。ディスコで流行っていたものですから、私もギミーアップと次にリリースした中ヒット「イン・トゥー・ザ・ナイト」(87年)のレコードだけは買いました。あとは「ハレルヤ」とか「レット・ミー・ダウン」などのシングル曲がありますけど、徹底した「二番煎じ型」ですので、ホントどれも似た感じです(トホホ)。

そのころ私は上京したばかりで、六本木、新宿、渋谷と、勇んで出かけたどの店でも大人気だったのを覚えています。まあ、マハラジャの経営者だった成田勝氏がなぜか当時、「イントゥーザナイト」の方のカバー・レコードを発売していますから、「マイケル・フォーチュナティといえばマハラジャ」というイメージもありますね。

彼の曲の曲調は「派手めのイタロ」といった感じでしょうか。80年代後半に定着し、在来ディスコを駆逐していったハウスミュージックやイタロハウスやハイパーユーロビートのノリも含まれていますので、今思えば、ギミーアップあたりはディスコ終焉に向けた序曲だったのかもしれません。

ギミーアップは、同時期に出たバナナラマの「I Heard A Rumor」と酷似していることで話題になりました。日本では、メロディーラインが哀愁系でなかなかの名曲だった「I Don't Know」のヒットがあるアイドルデュオのBabeなどがカバーしており、かなりの売れ行きを示しました。

そもそも日本の歌謡曲は当時、イタロサウンドにずいぶんと影響を受けていました。中山美穂、浅香唯、本田美奈子、工藤静香、Wink……。アイドルが歌うダンス系の曲はおしなべて、イタロ風もしくはユーロビート風のシンセサイザーの打ち込み音がばっしばし入っていたものです。

玄人はだしの音楽ファンにはてんで相手にされないマイケルさん。頼みの日本での人気も、90年ごろからは急下降。それでも、ギミーアップのおかげで、日本ディスコ史には確実に足跡を残しましたね。バブル狂乱期、私もけっこう喜んで踊っておりましたし、お世話になった一曲ということにはなるでしょう。「頑張れマイケル!!」とまずは声援を送っておきます。

CDについては、日本盤のベストがいくつか出ています。写真は2002年発売のEMI盤。ギミーアップとイントゥーザナイトの「ニューバージョン」もおまけとして入っているところが、過去の栄光にしがみつく痛々しさをほんのりと醸しているかのようですが。

デヴィッド・ライム (David Lyme)

David Lyme-280年代後半のユーロビート(イタロディスコ)の雄デヴィッド・ライム(本名:Jordi Cubino)は1966年生まれで、10代のころにはオペラなどの歌劇の歌手だったという経歴の持ち主です。本国スペインを拠点に、欧州向けディスコヒットを連発した時期がありました。

欧州以外では、やはりユーロビート好きの日本で人気が出ました。代表曲「プレイボーイ」の(86年)ほか、「バンビーノ」「バイ・バイ・ミ・アモール」といった「こりゃあいかにも!」の打ち込みメロディーは、バブル真っ盛りのディスコにて、ホントにうんざりするほどよく耳にしたものです。

・・・・・・いや、私もけっこう好きになりまして、ディスコで聞いた後にすぐ、プレイボーイのビリヤードジャケットの12インチレコード(上写真)を買いに行ったものです。

同時期に流行った同じユーロビートのマイケル・フォーチュナティやポール・レカキスやケン・ラズロなどと比べると、やや抑制的で大人びた雰囲気の曲が多かったデヴィッドさんですが、とりわけ個性的というほどでもなく、さほど強く印象付けられたアーチストではありません。まあ目立った曲は上記3曲のほか「I Don't Wanna Lose You」など2〜3曲でしょうか。特にプレイボーイが特別にしつこくかかっていた記憶があります。

日本で人気があっただけに、CDはもう80年代後半、デビューアルバムの「Like A Star(邦題:プレイボーイ)」が日本フォノグラムから発売されています(下写真)。2枚目の「Lady」も90年、日本盤(エイベックス)が発売されましたが、曲群自体は無難で悪くはないものの、ほとんど無視された状態となりました。いずれも今では廃盤ですので、かなりのレアものになっているようです。まあ、日本のバブル期と重ね合わせるように、あくまでも80年代後半に集中的に活躍した人といえます。

ご覧の通りイケメンでしたので、モデルとしても活躍していたデヴィッドさん。ですが、とにかくユーロディスコの人ですので、大市場アメリカではまったく売れませんでした。

欧米ディスコの清濁併せ呑むフロア文化をはぐくんできた日本については、ユーロビートのような欧州型ヒットも、初期のハウスやヒップホップ、ニュー・ジャック・スイングといった米国型ヒットも平等に楽しんでいました。デビッド・ライムもランDMCもボビー・ブラウンもMCハマーも、なんでもありです。マハラジャやエリアのフロアを賑わせた“ボディコン・ワンレン・太眉”女(例:石原真理子)も、“鋭角的DCブランド・スーツ”男(例:玉置浩二)も、欧米のおいしいところをたっぷりと味わっていたわけです。

90年代以降、デヴィッドさんは完全に表舞台を去ったわけではなく、主に欧州のポピュラー音楽の作曲家として安定的な地位を築いたようです。ということであれば(?)、後世に業績を伝えるCD再発という点でも、せめてベスト盤ぐらい安定的にプレスされるべきだと私は思っております。

David Lyme

アラベスク (Arabesque)

アラベスク今回はドイツつながりでアラベスクだよん。……とはいうものの、ドイツ本国では思ったほど売れず、日本で特別に売れた稀有なアーチストです。

1977年、旧西ドイツで女性3人により結成され、メンバー交代を何度か経ています。なぜかすぐに日本で人気に火がつき、洋楽チャートを席巻しました。もちろん曲は「ハロー・ミスター・モンキー」です。続いて「フライ・ハイ」、「フライデー・ナイト」とおなじみのディスコナンバーを繰り出しました。日本での70年代ディスコブームは、この人たちの登場でピークを迎えたともいえます。

まあ、欧米での活躍は今ひとつでしたけど、日、中、韓、それに東南アジアではアバと並んで欧州ディスコ・クイーン状態でした。欧州発のポップ歌謡風のディスコは、アジア人に共通して親しみやすいメロディーなのでしょう。彼女たちの曲は、10年後のバブリー・ユーロビート時代を予感させる派手やかさが持ち味でした。デビュー当時、私は中学生でしたが、洋楽ラジオでガンガンかかっていましたし、7インチシングルのジャケットも懐かしく思い出されます。

日本で発売されたデビューアルバムには、「ハローミスター…」「フライ・ハイ」「フライデー…」と代表曲が既に3曲入っています。セカンド以降の各アルバムからも、「ペパーミント・ジャック」、「ハイ・ライフ」「さわやかメイクラブ」、「恋にメリーゴーランド」、「ミッドナイト・ダンサー」、「ビリーズ・バーベキュー」、「キャバレーロに夢中」などなど、お馴染みのヒット曲を連発。グリム童話の舞台にもなったドイツの深い森をもほうふつとさせる、驚くべきメルヘンディスコが展開していくわけです。

アラベスクといえば、“猫ちゃんボイス”のメーンボーカルのサンドラ(62年生まれ)が有名。彼女が参加したのは、セカンドアルバム以降でして、最大の知名度を誇る「ハローミスター」のときには参加していませんが、個性的な声だっただけに、「アラベスクといえばサンドラ」といったイメージがあります。

このサンドラは、80年代半ばのアラベスク解散時にソロになり、アラベスク在籍時以上にブレイクしました。80年代らしいサビの超哀愁メロディーが印象的で、私も個人的に引かれてしまう「Innocent Love」、「In The Heat Of The Night」、「Maria Magdalena」のほか、「バッド・ママ・ジャマ」のカールカールトンもヒットさせた名曲のリメイク「Everlasting Love」といったダンス系の大ヒットを次々と繰り出し、“ヨーロッパのマドンナ”と呼ばれるほどの大物に成長したのでした。

さて、アラベスクはデビュー当時、ボニーMを率いるフランク・ファリアンが経営するスタジオで曲を録音していました。そのフランクのもとで、キーボード担当のスタジオミュージシャンとして働いていたのが、後のエニグマのリーダーであるマイケル・クレトゥ(Michael Cretu)です。

エニグマといえば、90年代初頭の特大ヒットとなった異色作「サッドネス」(91年、ディスコチャート1位)で知られます。この曲はダンスチャートでもヒットしたものの、中世ヨーロッパの教会音楽をモチーフにした、文字通り悲しくて暗〜い不気味な曲でしたね。フロアでかかったら、思わずひざまずき、涙を浮かべて「こんなところで堕落して申し訳ありません」と神に懺悔したくなります。

実は、このマイケル・クレトゥは、サンドラとアラベスク時代に知り合い、後に結婚し、子供ももうけています(さらに後に離婚したが)。サンドラは夫が率いるエニグマの曲にボーカルとして参加していますし、「In The Heat Of The Night」などの彼女のヒット曲の多くは、夫がプロデュースしています。離婚はしましたが、ヨーロッパでは2人とも、今でも不動のトップアーチストであります。

結局、アラベスクって、サンドラだけが幸せに出世していったわけですね。あまり名の知られていない残りのメンバー(Jasmin Elizabeth Vetter, Michaela Rose、Mary Ann Nagelとかいう人たち)は、トリオ解散後は鳴かず飛ばず。諸行無常の響きあり・・・・・・であります。

ちなみに、サンドラには、Alphavilleのオリジナルヒットで知られる「Big In Japan(Japan Ist Weit)」、プロモビデオが涙と感動を呼ぶ「Hiroshima」という曲もあり、アラベスク時代の感謝を込めてか、「日本びいき」なところも見せています。

アラベスクのCDですが、さすがに日本国内盤がいくつか出ています。写真はビクター盤2枚組ベスト。収録曲数が計40もあって最強です。

リック・アストリー (Rick Astley)

Rick Astley仏の面も三度……というわけで、「80年代後半・怒涛のユーロビートシリーズ」の最後を飾るのはリック・アストリー。ソウルフルな声の持ち主でありながら、見た目は単なる「英国のお坊ちゃまシンガー」であります。

もういきなり「日本盤」であることがバレバレな左写真は、むか〜しから売っているにも関わらず(89年発売)、今もTSUTAYAなどのバーゲンセールで500円程度で普通に見かける不思議ちゃんCD「12インチコレクション(5曲入り)」であります。つまり、それだけ当時は人気だったため、大量にプレスされた証だというわけですね。プレミアはまったくありません。

ただし、中身については、「必要十分の名盤」と私などは言い切ってしまいます。まず、リックさんを聴くのであれば、12インチである方が良い。そして、そんなにたくさん名曲がないから5曲入りで十分――ということです。

収録曲は、「ネバー・ゴナ・ギブ・ユー・アップ」「トゥゲザー・フォーエバー」「テイク・ミー・トゥー・ユア・ハート」「ダンス・ウィズ・ミー」「ストロング・ストロング・マン」。最初の2曲(両方とも全米ポップチャート、ディスコチャート、英国チャートいずれも1位)だけでもありがたいのに、3曲もプラスされているのです。

あえていえば、「When You Need Somebody」あたりが入っていればパーフェクトだったのでしょうが、まあ我慢の範囲であります。

プロデュースは、またもやストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)でありまして、曲調が「いかにも」というのは周知の事実。5曲とはいえ、続けて聴くと飽きます(断定)。でも、声はやっぱりいいのかなあ、と思います。全盛期バブルディスコの「フロア炸裂」の思い出もよみがえりますしね。女性ボーカル優勢のユーロビート(後期ハイエナジー)界にあって、ここまで男性ボーカルで高い位置を占めることができたのは特筆すべきことです。

リックさんは、90年代以降はSAWから離れ、自らの原点であるソウルな路線(もともとクラブのソウルバンドシンガーだった)で自立の道を模索しますが、あまりうまくいきませんでした。盛者必衰の理であります。それでも、2曲も超特大ヒットを飛ばしたのだからよしとしましょう。少なくとも“一発屋”ではないわけです。

サマンサ・ジルズ (Samantha Gilles)

サマンサ・ジルズ「円高でお金持ちだよん」――ということで日本が有頂天になっていた80年代後半、ディスコは“マハラジャ旋風”に代表される第2次黄金期を迎えていた。「さあジャパンマネーでお買い物だよん!」というわけで、レコード業界関係者たちは、ハワイの不動産ブームをよそに、ヨーロッパの音楽著作権を買いあさっていたという。

最大の標的は、ものすごーく不況に陥って通貨リラが暴落していたイタリアやスペインなどの「ユーロビートの本場」の国々だった。「ユー、アー、プレ〜イボーイ♪」「アイライクショパン〜♪」などと聴けば、ピンとくる40前後の人々も多いであろう。

ちょっと地味だけど、ベルギー出身のサマンサ・ジルズも、そんな感じで日本に「安く輸入」された一人だった。ベルギーといえば、70年代後半の「ディスコ第一期黄金時代」には、「サンチャゴ・ラバー」でお馴染み(?)のエミリー・スターという「アイドル的ディスコちゃん」が人気を博したが、それ以来ということになる。

サマンサもまさに「ちゃん」付けが似合うような、美少女アイドル系だった。何しろ1984年に「フィール・イット(Let Me Feel it)」でデビューした当時は12歳。「英国ハイエナジー・ディスコチャート」で上位にランクインするなど、まずは欧州で人気に火がついたが、即座に日本にも飛び火したのである。

私は上記「ハイナジー・チャート」で初めて目にして、さっそく英レコード・シャック盤の「フィール・イット」の12インチを買ってみたのだが、最初に聴いた印象は「まあまあ」。でも、B面に、少し面白いアレンジのリミックスが入っていたのを記憶している(今は部屋の片隅に埋もれていて捜索不可能)。

サマンサはその後、「Music Is My Thing(ミュージックがすべて)」(86年)、「Hold Me」(87年)、「One Way Ticket To Heaven(天国への片道切符)」(88年)、「S.T.O.P.」(同)といった、哀愁路線のハイエナジーヒットを立て続けに飛ばしていった。ヨーロッパでの低落気味のセールスをよそに、日本では大いにもてはやされ、その勢いは90年代初頭の「ジュリアナ東京」なんかの時代まで続いた。もはやサマンサに怖いものはない……。

ところが、それから間もなく彼女は、忽然と姿を消すのである。90年代半ばごろまでは、日本で細々と、ありがちな「大人のサマンサ」路線のアルバムをエイベックスから出していたのだけれど、96年発売の「デスティニー」を最後に、ぱったりと音沙汰がなくなってしまったのだ。理由は、単に「売れなくなった」ということなのだが、日本における「バブルディスコの終焉」とも、濃厚に重なり合っていることは確かだろう。

あっさりと日本にも捨てられ、忘却の彼方へと追いやられてしまったサマンサ。けれども、ハイエナジー(ユーロビート)の一つの象徴として、日本ディスコ史にしっかりと足跡を残していったという事実は消えない。今も故郷ベルギーの港湾都市アントワープあたりで、トレードマークのブロンド髪をはためかせながら、元気に暮らしていることを祈るばかりである。

ちなみに、「ミュージックがすべて」は、4年前に日本の子供アイドルグループ「dream」がリメイクしてヒットさせている。私は何だか懐かしくて、近所のCD店で思わず買ってしまったのだった(トホホ)。

写真のCDは、1988年に発売された日本盤ベスト。「ミュージックがすべて」「ホールド・ミー」「天国への片道切符」が、いずれもロングバージョンで収録されているのがうれしい。ただ、ジャケットの少しはにかんだ表情のサマンサが、妙に哀しみを誘うのである。

デッド・オア・アライブ (Dead Or Alive)

Dead Or Alive「こんな曲がついに出たか!」。デッド・オア・アライブ(DOA)をディスコで初めて聞いたときの身震いする感覚。ハイエナジー系のうねうねシンセ・サウンドの一つの到達点であり、あまりにイケイケで吐きそうなほどでした。

1983年、当時の地元札幌のディスコ「釈迦曼陀羅」で耳にしたのは、「What I Want」という曲でした。最高潮に盛り上がったときにいきなりかかり、何だか分からないままに、フロアに飛んでいったのを記憶しています。すぐに客で満杯になり、地響きが鳴り響くような状況になりました。ボーカルのピート・バーンズの野太い声が、いまも鼓膜の奥によみがえってきます。

DOAは1979年、同性愛風の派手派手コスチュームに身を固めたピートを中心に結成された、「ナイトメアーズ・イン・ワックス」という新手の英国ニューウェーブ・グループが前身。翌80年には、やはりピートを前面に出したDOAに改称し、現在にまで至っています。私が聞き始めたころには、既に結成から3年も経っていたというわけです。

私は当時、What I Wantが入ったデビューアルバム「Sophisticated Boom Boom」(84年発売)のピートの姿(左写真)などを見て、同じころに流行ったカルチャークラブのボーイ・ジョージの真似だ、と即座に感じました。同様の女装ゲイっぽいキャラのマイナーアーチストは、(ディバインのような奇天烈なやつも含めて)ほかにもたくさんいましたし。

けれども、カルチャークラブの結成は81年ですから、「ゲイコスチューム路線」という意味でも、DOAの方が少し先を行っていたようです(ただし、ピートとボーイは、互いに「あっちが真似した」と争い続けています。つまり仲が悪い)。

まあ、ルックスはともかく、デビューアルバムの曲はどれも秀逸だったものです。A面収録のKCの「ザッツ・ア・ウェイ」のリメイクなんかも、非常にソリッドかつトリッキーなシンセ使いに、ピートのあの「オペラでもやっていたのか?」と思わせる豊かな声量の歌声が、うま〜く調和しております。

85年に出した2枚目アルバム「ユースクエイク(Youthquake)」あたりから、セールスのピークを迎えます。プロデュースはお約束のストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)。「ユー・スピン・ミーラウンド」(英国チャート1位、全米ディスコチャート4位)のほか、「ラバー・カム・バック・トゥー・ミー」、「マイ・ハーツ・ゴーズ・バング」が収録され、このどれがかかっても、フロアは「どっか〜ん、どっか〜ん」の大花火大会でした。

86年発売の3枚目「Mad, Bad, and Dangerous to Know」も売れ行き好調。「ブランド・ニュー・ラバー」(全米ディスコチャート1位)、「サムシング・イン・マイ・ハウス」(同3位)はまたまた、ディスコフロアを激しくにぎわせました。

日本では、この後もヒット街道ばく進。バブル景気にもろに乗っかって、全国各地のディスコは皆、DOAモノで本当にむせ返るほどだったのですが、米国や本国英国では徐々に失速します。もともと変人扱いのピート・バーンズは、やれ「整形手術で唇が変になった」とか(事実らしい)、同棲相手の男と大喧嘩して警察沙汰になったとか(これも事実らしい)、とりわけゴシップで世間を騒がせる存在になっていったのです。

私自身もこのころから、DOAには正直、「そろそろマンネリかな??」と飽き始めてきました。90年代以降は、少し曲のトーンをソフト路線へと変えたようですが、ほとんど聴いていません。

ここで意外な事実。実は、ピートさんは80年代前半から普通に結婚していて、昨年離婚したばかりだというのです。でも、男性とも同棲しているわけですから、「バイセクシャル」ということになります。(まあ、そんなことはどうでもいいのですが)。

ほとんどのアルバムがCD化されていますが、写真のデビューアルバムは最近は希少価値大。2年ほど前には、待望の12インチ集CDが計画されたにもかかわらず、発売直前でなぜかお蔵入りになっています。「2003年●●ミックス」のようなセルフリメイクが非常に多いアーチストですので、今後、再び12インチ集を編集するのであれば、オリジナルバージョンをそろえてほしいものです。

追記*この投稿の4カ月後、待望のデビューアルバムのCDが発売されました。しかも12インチバージョンのボーナストラック入り! けっこうなことでございます。

バナナラマ (Bananarama)

バナナラマSAWの代表選手「バナナラマ」は、1981年にカレン、サラ、シボーンの女友達同士で結成した英国の3人組でした。後にシボーンが結婚して抜けたものの、今も2人組で活躍中の大ベテラン。世界で最もチャート入りを果たした女性ボーカルグループとして、ギネスブックに載ったほどであります。

SAWがプロデュースし始めたのは1986年のこと。バナナラマ側が、彼らがプロデュースしたデッド・オア・アライブの曲を聴いて気に入り、制作を依頼したという経緯があります。同年に出たお馴染みの「ビーナス」は、いきなり全米1位を記録する特大ヒットとなり、世界中のディスコで定番化したというわけです。

「打ち出の小槌」SAWの力を得たバナナラマは、ビーナス以外にも「モア・ザン・フィジカル」「アイ・ハード・ア・ルーマー」「ラブ・イン・ザ・ファースト・ディグリー(第一級恋愛罪)」などなど、バブル景気真っ盛りの80年代後半を彩るダンスコヒットを連発しました。言うまでもなく、ディスコフロアでは「耳にタコ、靴ずれでかかとにもタコ」状態でしたね。

特に「アイ・ハード…」は、マイケル・フォーチュナティーのあの「ギブ・ミー・アップ」にそっくりだと話題になりました。実際はどっちが真似をしたのかよく分からないのですが、確かに当時は、ちょっとはオーケストラな雰囲気を持っていたハイエナジー系が、「もろ打ち込み」のユーロビートに変貌し、似通った曲が量産されてきた時代でもありました。

まあこのあたりは、賛否が分かれるところでしょうが、80年代後半という時代性を考えれば、「おバカの頂点」という意味で、私はぎりぎり好きな部類に入ります。

というわけで、バナナラマにとっての絶頂期は80年代後半ですけれども、私としては結成直後の曲に注目したいところ。このころは、元スペシャルズのメンバーで結成された「ファン・ボーイ・スリー」の協力により制作された曲が多い。つまり、スカロックなテイストがにじんでいるのです。

「リアリ・セイイング・サムシング」「シャイ・ボーイ」「クルエル・サマー」といったあたりがこのころの代表作。とりわけ「クルエル」は、83年に全米ポップチャート9位、全米ディスコチャート11位までそれぞれ上昇する中ヒットになっています。当時のジャケットやPVをみると、まだいかにも“おてんば少女”のアイドルという感じです。でも、曲にはユーロっぽい軽さはなく、逆にこのころの方が大人っぽさを感じさせます。

もともとバナナラマはボーカルに特徴がありまして、3人がパート別に分かれてハモるのではなく、一斉に同じ調子で歌う方法をとっていたことで知られています。初期のレコーディング時には、1本のマイクを3人で一緒に使うこともありました。それで、なんだか合唱団のような独特のボーカルが展開されているというわけです。

写真のCDは、少し前に発売された12インチコレクション。12曲入りなので、26年ものキャリアからして網羅的にはなりえないものの、クルエル・サマーやシャイ・ボーイのロングバージョンが入っているのが嬉しいところ。クルエルはオリジナルの12インチとは内容が違っていまして、しかしなかなかカッコよいです。ホット・トラックスあたりのDJミックスが収録されているのだと思います。

ストック・エイトケン・ウオーターマン (Stock Aitken Waterman)

ストック・エイトケン・ウォーターマンいやあ、来週また出張になりそうなので、今のうちに……というわけで、今回はストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)!! ハイエナジー&ゲイの流れからすれば、ある意味当然の帰結ではあります。

日本人にとっては、猛烈にバブルな曲の数々。80年代後半に訪れた、美しき放蕩、夢にまで見た似非日本経済王朝期に最もふさわしかったといわざるを得ません。「一期は夢よ、ただ狂え」(「閑吟集」)ならぬ、「踊れや叫べ。ディスコの出番!」てなわけで、もう全国各地に「マハラジャ」が出現しちゃってたころであります。SAWって、そんなアホな雰囲気にぴったりだった気がします。

とにかく私もアホでした。ファッション雑誌「メンズノンノ」とか「チェックメイト」とか買っちゃって、誌面でにっこり笑うモデルの阿部ちゃん(阿部寛)や風間徹を見習ったつもりになって、「丸井」でローンで買ったDCブランド(その多くは今は消滅)の衣料品に身を包み、ディスコに夜な夜な出かけるのでした。

でも、行くのは新宿とか六本木とか渋谷のフリーフード/フリードリンクの店が中心でしたな。ゼノン、リージェンシー、ヴィエッティ、メイキャップ、ウイズ、キゼー(日本発の「お立ち台」を導入)、スターウッズ、ラ・スカーラ……。そんなあたりが出没店でありました。

一方で、有名なマハラジャ、エリアのほか、88年の正月に「バブル崩壊の予兆」として悲惨な機材落下事故を起こしたトゥーリアなどは、一通り行きましたけど、通うほどにはならなかった。服装チェックとかVIPルームとか、今の格差社会じゃあるまいし、庶民の変な優越感を助長する感じも「トホホ」でありました。何しろ、所詮はおバカさんで陽気なディスコなわけで、もっとラフな格好で自由奔放に踊る方が好みだったわけです。

そんな当時のディスコで、派手やかにかかっていた曲の多くは、SAWのプロデュース作品でした。デッド・オア・アライブ、ディバイン、バナナラマ、リック・アストレー、カイリー・ミノーグ……。いま聴くと、「曲調やっぱどれも似てるなあ」とはしみじみ思いますが、20代前半の気恥ずかしい思い出が確実によみがえります。とにかくフロアは、SAWの大洪水でした。

SAWは1984年、文字通り、英国のストック、エイトケン、ウォーターマンの3人によって結成されたプロデュースチームの名前。プロダクション会社名は、3人のうちピート・ウォーターマンさんの名前をとってPWL(Pete Waterman Limited)です。これまでに紹介してきたイアン・レヴィーン(レコード・シャック・レーベル)とかイアン・スティーブン・アンソニー(パッション・レーベル)などと同様、メロディーは米モータウン・サウンドを源流としたハイエナジーであります。

特に80年代末期になってからの作品は、前期ハイエナジーのよさを踏襲しつつも、もっと複雑かつ多様になっていきます。80年代末〜90年代初頭に定着する「ユーロビート」、さらには「ユーロハウス」などの元祖とも称されますが、こちらはもう私の定義する「ディスコ」の枠外になってしまいます。私の場合、トゥーリアの事故あたりから、リアルタイムのディスコには関心がなくなっていくのでありました。

SAWの曲の中身は、基本的には、シンセサイザーの打ち込みにボーカルを乗せる構成で、万人受けするタイプ。「ストップ・エイトケン・ウォーターマン!」なんてからかって、嫌うムキも多かったのですが、ディスコというものは、ノリがよくてフロア栄えするのなら、まずはオッケー!!。「踊る阿呆たち」の額に流れる汗は、とどまるところを知らないのであります。

実際、欧州やアジアでは、一般チャート上位に入るほどに大メジャー化。本国英国では、80年代後半、カイリーミノーグなどの曲をトップ10にがんがん送り込んでいました。実は、80年代の英国も、サッチャー保守政権の改革路線により、土地の価格が急騰するなどなかなかのバブル景気になっていました。「浮かれた気分はハイエナジー」という標語(?)は、万国共通なのかもしれません。

ただ、凡百のハイエナジープロデューサーとは違い、この人たちはR&B風の曲もけっこう制作しています。私などは、プリンセスという女性ボーカリストの「Say I'm Your Number One」(85年)とか「After The Love Has Gone」(86年)なんて、アダルト向けの名曲だと思います。ディスコでもよく耳にしました。

写真のCDは、彼らの代表作品を集めた豪華3枚組ボックス・セット。シングル・バージョンが多いのですけど、3枚目は素敵な12インチバージョン集となっております。これには、みんな知ってるディバインの「ユー・シンク・ユア・ア・マン」の貴重なリミックス(男性ナレーションが入っている)や、前述したプリンセスのしっぽりR&B「Say I'm Your Number One」、SAW名義でリリースした「ロードブロック」のレア・グルーブ・ミックスなどが収録されております。

ず〜と聴いているとさすがに飽きますが、なぜだか落ち込んだとき、自分をバブリーに盛り上げたいときには最適でしょう。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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