Anita Ward「ねえ、なんとかベルってないのお〜? ぽ〜ん、ぽ〜んっていうやつ…。あれ好きなんだよねえ〜」。およそ10年前のこと、私が遊びでDJをやっていたあるダンクラ・パーティーで、30代OLからこうけだるくリクエストされたのが、アニタ・ワード「リング・マイ・ベル」(79年)でありました。

イントロの「ぽ〜ん、ぽ〜ん」でたいていの人は分かってしまう(わけはない)のがこの曲です。っていうか、アニタワードといえばリングマイベル、リングマイベルといえばアニタワード。彼女は世界ディスコ界では、「ディスコ・ダック」(76年)のリック・ディーズ(Rick Dees)とならぶ“いとしの一発屋”なのであります
。何しろ、どちらも全米一般チャートで堂々の1位を獲得したのですが、その後は真っ逆さまでした。

1957年に米メンフィスで生まれたアニタ(アニータではない)は、やはりほかの黒人シンガー同様、ゴスペル教会で歌い始めました。勉強もできたため、学校卒業後は小学校の教職に就いたものの、歌が忘れられません。そこである日、まあまあ有名だったR&Bシンガー兼プロデューサーのフレデリック・ナイト(実はこの人も一発屋)に歌を聞かせたところ、「コレはイケルる!」ということで急遽、アルバム制作に入ったのでした。

デビューアルバムに収録するために、フレデリックはいくつか曲を作りました。けれども、レコードの収録キャパ的に「もう一曲、なんか欲しいなあ」ということになったのです。既に発売日までの日数的に余裕がなかったので、彼は「ええい、前に作曲しておいたのを使っちゃえ!」ということで、それを多少修正した上で「リング・マイ・ベル」としてアルバムに入れたのです。

この曲、もともとは、後に少し売れた少女歌手ステイシー・ラティソーのために作ったものでしたが、どういうわけかお蔵入りになっていたのでした。“子供用”ですので、歌詞は「恋する少女」が友人との電話で「あの人かっこいいよね」みたいにぺちゃくちゃしゃべっているような内容。あまりに幼すぎたために、「今夜はあなたと2人っきり。ねえ、あなた、私のベルを鳴らして! 雰囲気を盛り上げて!」という風に多少(相当に)、色っぽく変更したというわけです。

このアルバムは、彼女にとって、ゴスペル少女時代からの夢の実現そのものでした。ですから、「リング…」以外のほとんどの収録曲は、アーバンソウルなしっとりした曲ばかりなんです。彼女は「リング…」を歌うのを最初は凄く嫌がっていたのですが、「今はディスコの時代なんだ。だから一曲ぐらいほしい」とフレデリックが強く主張したため、結局は妥協したのです。アルバムタイトルも「Songs Of Love」ですしねえ。本当はバラード歌手、R&B歌手を目指してたのです。

ところが、何の因果か、「リング…」はあれよあれよと言う間にチャートを駆け上っていきました。アニタは突然にして、スター歌手の仲間入りをしてしまったのです。

…と、このあたりは、前回投稿のイブリン・キングと同じような「ラッキー・デビュー物語」ですが、そのあとがいけません。「リング…」以降にシングルカットした曲が、見事に大コケだったのです。大衆が望んでいたのは、やはりディスコであって、「アニタのバラード」ではなかったのでした。「安定した教職を捨ててまで歌手になったのに。私の青春を返して!キーッ!」と心の中で叫んでいたのかは知りませんが、もはや過去の人になっていたのでした。残酷なものです。

それでも、アニタの「リング…」がディスコ史に残した輝かしい足跡は、消えるものではありません。あの「ぽ〜ん」のイントロはどうしたって印象的です。実は「シンセ・ドラムを使った最初のディスコ」とも言われていますから、ビートの刻み方もしっかりしている。私の好きな曲の一つでもあります。

意外にも、この人のCDはけっこう再発されています。写真はドイツ盤のベストで、「リング・マイ・ベル」の12インチバージョン入り。この一曲のおかげで、「ベスト盤」が出ちまうんですから、偉大です。

ところで、「一発屋キング」リック・ディーズのその後は、けっこう明るいものでした。歌手としてはやっぱりダメダメだったものの、米国の超人気ラジオDJとして、いまだに大活躍中のようであります。

画質はイマイチですが、2人の当時の映像をYouTubeで見つけました。「間抜けでおバカでハッピーで哀しい」ディスコ・ダックと、「ベルを持つ右手がただ哀しみを誘う」リング・マイ・ベルであります。